銭湯からの帰りに自動販売機で買った缶ビールを飲みながら、中川はしき
りに専門学校の実情を訴えた。高校時代から親しんだ八重歯が覗いている。
「先生はアルバイトしながらの勉強も可能だっていうけどな、これがなかな
か難しそうだし、だいいちあの授業内容で本当に英語の力が身につくのか。
そこのところがおれにはどうもわからないんだ」
「おれたちは商業学校出だからな。そのハンディもあるんじゃないか。現に
おれだって古典や漢文がチンプンカンプンだもの」
「いやそういう問題じゃないと思う」
「……じゃおまえの学力が劣るのか?」
「いや、そうでもないんだ。ただおれはどうしても英語をマスターする必要
があるんだけど、ほかの連中はそうじゃない。何だかアクセサリーのひとつ
として英語を勉強にきているような……。そして学校も平気でそういう奴ら
を受け入れているような……。そんな学校の金儲け主義や雰囲気がたまらな
くイヤなんだ」
わたしは中川の愚痴を笑えなかった。わたしにくらべれば中川は人生のレ
ールの上を確実に歩いている……。
上京して二か月、わたしが川崎に借りた下宿は、近所に叔父が住んでいる
という理由から、父親がきめた。一階は大家と倅夫婦の住居。外に張り出さ
れた階段を上がり、下宿人が住む二階は三室で、わたしは角部屋。トイレも
流しも共同だった。
高校卒業後、わたしは世田谷にあるK大に、中川は神田にある英会話学院
に進んだ。中川は英語に強く、映画狂で、翻訳家を目指していた。
「それに今の西荻窪の下宿も息がつまってたまらないよ」
中川の不満は下宿先に転じた。大家夫人は踊りの師匠で、中川の留守中に
無断で室内に入り、彼の私物を整理してしまうというし、門限にも厳しく、
わたしの下宿に泊まりにくるときも断りを入れなければいけないという。
「女じゃあるまいし、おれ、ほかの下宿を捜そうかな」
中川はピーナッツを口の中に放り込んだ。ダスティホフマンに似ている。
「おまえだけじゃないよ。おれもひどいもんだ。ここで一人住まいを始めて
から、たかだか一週間でホームシックになって、故郷へ逃げ帰ってしまった
んだから……。まったく大人ぶっていた自分がイヤになってくる」
わたしは捨て子はこんな気持ちに襲われるのではないかと思った。捨て子
のように大声で泣き叫びたいが、わたしはすでに一人前といわれる年齢にな
っている……。
わたしは缶ビールを呷った。苦い。
「それでおまえはどうするんだ。このまま大学を卒業してホワイトカラーに
なりますか、それとも芸人になりますか?」
中川はおどけた口調でいった。わたしの心の痛点を突く言葉だ。わたしは
すこし身構えた。
わたしは子供の頃からラジオの演芸番組に親しみ、国語の朗読が得意で、
講談、落語という一人話芸に憧れ続けてきた。おれは絶対芸人になる……。
人生の志望は小学校三年で決定していた。
わたしは東京新聞の寄席案内欄を高校の図書室で読むのが楽しみだった。
前日の夕刊だが、そこに贔屓の芸人の名前を見つけると、あたかも自分が寄
席に出演しているような錯覚に囚われた……。
「迷ってるんだ」
「だけどおまえは弟子入りの許可をもらってるんだろう」
「ああ」
高校三年となり、わたしは講談の二代目品川陽山に弟子入りの手紙を書い
た。陽山は中学時代から好んだ芸人の一人で、最初は断られ、二度目に、弟
子にしてもよいが一度訪ねていらっしゃいとの返事がきた。
「それじゃすぐにでも師匠のところへいけるじゃないか」
「不安なんだ」
「何が?」
「芸人の生活がさ」
「バカいえ。不安なんてどんな仕事にでもあるだろう。おまえは度胸がない
だけだし、現実から逃げてるんだ。だからそんなに中途半端なんだ」
「……」
わたしはショートホープに火をつけた。下宿近くの食堂で隣りの席に忘れ
られたタバコを喫ったのが初体験で、それがショートホープだった。強い。
煙りが目にしみた……。
「だけど芸人は当たり前の仕事じゃないぞ。いってみりゃヤクザと同じだ」
わたしは反撃を試みた。自己弁護のつもりだった。が、自己欺瞞にしかな
らないことも承知していた……。
「でも好きなんだろう」
「ああ。手先は不器用だし、喋ること以外に、やれそうな仕事はない」
「それならやるしかないだろう」
しかし、実行できなかった……。
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