愛山の講談私小説シリーズ アル中の種(3)

 

アル中の種

 

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「どうして実行できなかったんですか?」
 光子が口をはさんできた。
「いまは講釈師でも落語家でも、修行過程がしっかりしているから、フリー
ターよりはましだろうって、あまり親たちも弟子入りには反対しないみたい
だけど、まだおれたちの頃は芸人は河原乞食という印象があったから、その
世界に飛び込むってことは人間社会から決別するような、そのくらいの勇気
が必要だと思ってたんだ。
 ……おれは未知の世界へなかなか飛び込んでいけないんだよ。たとえば駅
からの帰り道にしても、決まった道しか歩けない。ちょっと寄り道してみよ
うとか、今日は違う道を探してみようということができないんだ。だから食
堂や床屋を変えることもできない。すこしくらい気に入らなくても、他の店
を探す億劫さからくらべると、つい同じところですませてしまう」
「じゃあ、この喫茶店は?」
「初めて……。だけどあなたと一緒だろう。誰かが一緒にいてくれれば、今
のおれは決断できるんだ。不安は消えないけどね」
「でもその食堂や床屋さんに初めて入ったときは、一人で未知の領域に踏み
込んでるわけでしょう……。これべつに屁理屈じゃないですけど」
「それはそうだけど、おれにしてみれば一大決心なんだ。そういうときは死
んだ気になってるといっていいね」
「毎日そうなんですか」
「うん」
「疲れるでしょうね」
「だから酒を飲んでいたんだよ」
「それじゃ今はどうしてお酒を飲まないでいられるんですか?」
「酒を飲んでも疲れるからさ」
「……?」
「つまり素面でも疲れるし、飲んでも疲れる。酒を飲むと疲労が倍になる。
それならば素面で疲れていたほうが半分の疲れですむ。単純な理屈だろう。
おまけにおれの場合は酒を飲むとえらいシクジリを重ねてしまう。それじゃ
おれはもう酒なしで生きていこうという決断がようやくついたからさ」
「でも、もうお酒はやめたっていいながら、また何度もお酒を飲んじゃう人
って多いじゃないですか」
「それは決断じゃなくて、単なる思いつきだよ。そんな願望程度じゃ酒はや
められない。飲みたくなったら飲んじゃうよ。飲みたくなっても飲まないの
が、人生の決断をつけた奴さ。それまでの飲んだくれ人生を諦めざるを得な
いまでに追い込まれてしまった奴さ」
「だけど陽吉さんの理屈でいっても、残り半分の素面の疲れはまだ残ってい
るわけでしょう。それはどうするんですか?」
「その疲れまでとろうとするのは贅沢だよ。半分は疲れるから、人間は死ん
でいけるんだ。全然疲れずにいつまでも生きていけるとしたら、それこそ地
獄だよ。おれはアパートの更新にあわせて、いつも後二年の寿命と決めてる
んだ。二年先に死ねるかもしれないという明るい希望のもとに生きている。
風邪でぽっくり死ねたら最高だね」
「自殺をどう思われますか?」
「いつでも自殺できるという救いがあるから、自殺しないで生きていられる
奴もいるんじゃないかな」
「……」
 …………
 …………

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