わたしは芸人志望を猛反対する両親を欺くために進学した。上京さえすれ
ばこちらのもの、すぐにでも品川陽山の門を叩けると思った。
しかし……、父親のいうとおりに大学を卒業して国語教師になることがお
まえの人生なのではないのかと、もう一人の自分が反乱を起こした。わたし
はこの突然のクーデターを鎮圧できない。武器の準備ができていないのだ。
わたしは父親の過保護の下に育てられた。父親は刑務官と同じで、とても
鬱陶しく、窮屈ではあるけれど、わたしはこの刑務官に守られていないと行
動できなかった。家庭という名の刑務所に収監されていないと生存できなか
った。
わたしは焦慮と自己嫌悪感に責められ、酒を飲まないと心の収拾がつかな
くなった。酒はわたしの味覚にあわないが、精神安定剤の役を果たしてくれ
た。心の戦闘が休戦となるのだ。父親に代わり、酒がわたしを守ってくれた。
四畳半一間に一万五千円の家賃、ラジオと文机だけが財産の下宿で、わた
しは酔っていたかった。素面にもどるのが怖かった。芸人か、学業か……。
二者択一を迫られるのは、たとえ一秒でも遅いほうがいい。
中川に促され、わたしは布団を敷いた。一組の布団に二人で寝なければな
らない。寒くなったらどうしよう。炬燵もない。
目覚まし時計は午前零時をすぎている。ラジオの深夜放送から吉田拓郎の
「旅の宿」が流れてきた。今年のヒット曲だ。
中川はすぐに寝息を立てたが、わたしはまだ飲み足りない。わたしは静か
に床を抜け出すと、ビールの自動販売機に走ったー。
寝不足の目に初夏の陽光が眩しい。
二日酔いだ。酒を飲むたびに経験する。
しかし酒に守ってもらっている以上、このくらいのことはやむを得ない。
川崎駅に出るバスの振動にむかつき、まだピーナッツの滓が歯の間に詰まっ
ている。
わたしは不機嫌だった。
「まあとにかくお互い頑張りましょう」
中川は京浜東北線上りホームへ向かった。中川は鬱積したものを抱えなが
らも学校へは通う。わたしは朝の駅構内の張りつめた空気に弾かれている自
分を意識した。わたしには社会生活に参加していないうしろめたさがある。
無言で足早に歩くサラリーマンが羨ましい。
わたしが大学に出るためには南武線で武蔵小杉まで向かい、東横線に乗り
換えて、さらに田園調布からバスを利用しなければならない。わたしはこの
煩わしさを登校拒否の理由にした。いつものことだ。
わたしは中川に遅れて、京浜東北線上りホームから電車に乗った。わたし
の目的地は決まっていた……。
上野本牧亭の昼席は「若手講談会」で、まだ開演までには時間があった。
わたしは上野公園のベンチに腰を下ろした。立ち入り禁止の立札を無視し
て芝生で寝転んでいるわたしと同世代の若者や、呆けたように空を仰いでい
る中年のサラリーマンがいる。川崎駅前のピンク映画館でよく見かける顔つ
きだ。全身に倦怠感がこびりつき、皮膚がカサカサに乾いている。が、わた
しも彼らと同じ種族なのだろう。
「お兄ちゃん、いい仕事があるよ」
ヤクザが声をかけてきた。
わたしは重い気分で本牧亭へ向かった。
今日も怠惰な一日になりそうだ……。
「若手講談会」の客入りは悪い。高校の柔道場ほどの畳席の壁を背にして
数人の年寄りが座っている。講釈師の顔にも生彩がない。唇の端に飯粒をつ
けたままの前座がいた。毎年のように斜陽といわれ、落語ブームの陰に隠れ
た講談界の鬱屈をみるようで、わたしは愕然とした……。
…………
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