歩いて数分の大家宅まで家賃を持参して、夫人から立ち退きを告げられたの は、一昨年の梅雨だった。夫人は背が高く彫りの深い美人で、よく駅前のスー パーで出会う。高校生の息子がいる。 「もうあのアパートは築三十年になりますし、半分の人は出て行ってしまって、 新しい人もなかなか入りませんしねえ。それにいろいろ防犯上の問題もありま すし……。いえ、壊したあとにどうこうということは、まだ考えてはいないん ですけど、とにかく来年の更新はいたしませんので、よろしくお願いいたしま す」 夫人は言い辛そうだった。 ……今のアパートに住んで九年になる。東京の西のはずれの、この土地で暮 らすようになってから四件目の住居で、もっとも長い期間が経過していた。最 寄り駅まで十数分。六畳と四畳半に七畳の台所が付く。エアコン設備はないが、 二階の南向きの部屋で、フリーライターの二階堂安江と同居のために移ってき たが、その安江は最初の更新をむかえる前に、わたしのもとを去っていた。 また引っ越しか……。 立ち退き期限まで一年以上あるというのに、転居に伴う様々な雑事が頭に浮 かび、わたしはすっかり憂鬱になった。わたしは五十をこえた独り者。貯金も ない。この先何度引っ越しを繰り返さなければならないのか……。 しかし同期の講釈師仲間で家を購入した者は一人しかいない。それがせめて もの救いとなった。女流講談を除いて、およそ世間から認知されている稼業で はない。 「あのアパートもこちらの持ち物ですよね」 わたしは隣の建物を指差した。木立ちの奥に屋根が見える。大家は農家で、 ワンルームマンションを含めた数件の物件を抱えていたが、そのアパートがわ たしの部屋と同じ間取りということは承知していた。 「そうですけど?」 「もしもわたしの立ち退きまでに、あそこのどなたかが引っ越されるようなこ とがあったら、まずわたしに知らせていただけませんか」 「……わかりました。真っ先にお知らせいたします」 そう都合よくことが進むわけはない。しかしわたしは保険をかけたつもりだ った。おぼれる者が藁をつかんだ。家賃を支払い、畑道を戻ると、トラクター を運転していた大家が声をかけてきた。わたしと同世代のはずだ。わたしは大 声で隣のアパートの家賃を訊いた。ほぼ同額だった。 わたしは無言で頭をさげた。
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