部屋に戻ると、つけっ放しのテレビが正午のニュースになっていた。月末が
近づき、十一時までに起きられた日があったら、家賃を持っていく。今日も、
その習慣に従ったまでだった。
明け方近くに床に就いても眠られぬ日が多く、夜光虫の暮らしは、大学を中
退して講釈師になった頃から続いていた。床に就くと、わたしの頭は鮮明にな
る。そして不快なことばかりを考える。子供の頃から骨身に染み付いた性癖だ
った。要するに、明日が怖い、のだ。
この恐怖心を以前は酒で消していた。しかし今は酒を飲めない。アルコール
依存症の烙印を押されたからだ。酒を断ち、二十余年の歳月が流れていた。
このアパートは、藤岡に世話をしてもらった。アルコール依存症から復帰し
た講釈師としてマスコミに取り上げられていた頃、新聞を読んだ藤岡が、わた
しに電話をかけてきた。藤岡は土地の不動産業者で、地域寄席や、バス旅行に、
わたしを使ってくれた。そういう客に義理をつくるのは本意ではなかったが、
やむを得ない。三軒目のアパートから立ち退きを迫られた際に、わたしは藤岡
の力を借りた。わたしは自分の意志で転居をしたことはない。すべて相手方の
事情だった。
しかしその藤岡も癌のために鬼籍の人となり、次の部屋探しは難しいものと
なるだろう。芸人に理解を示してくれるオーナーは少ないはずだ。保証人も、
今はいろいろな条件を出されると聞いている。
バブルの崩壊に影響を受けたのは一般社会ばかりではない。企業が予算を削
るとすれば、まず娯楽に目をつける。宴会の余興が少なくなり、結婚式にして
も、友人知人が司会をこなして、芸人の出番は少なくなっている。講釈師独自
の仕事である名所旧跡巡りにしても、観光客の数は激減しているという。
とにかくこの世界で生き残らなければならない。
飯の種を探さなければならない。
売れることなど二の次だ。
わたしは床屋にいくたびに『だいぶ肩が張っていらっしゃいますねえ』とい
われる。神経と目の疲労であることはわかっている。近視と乱視に老眼が入り、
検眼にいくのも億劫だ。頭頂部も薄くなり、毎日が鬱気分だ。
そこへまたアパート立ち退き問題を背負わされたのだ。溜め息をつくのも面
倒になった……。
大家宅に向かう前に洗面だけはすませてあった。スェットスーツは室内着と
寝間着を兼ねている。一年中出してある机代わりのコタツを前に座椅子にもた
れると、パンにバナナに茹で卵を牛乳で流し込む。喫茶店のモーニングサービ
スからヒントを得た朝昼兼用の食事も変わらない。食後のコーヒーを飲み、煙
草に火をつけた。
さて……。
何がさてなのかはわからない。
これからの行動をおこすまでの気怠い時間だ。
今日の夜席は「講談互助会」だった。
講談互助会は、わたしが発足させた会で、すこしでも高座数を増やそうとの
考えからだった。
わたしが所属する講談連盟は二代目品川陽山一門で固められていたが、陽山
亡きあと、落語扇会にも席をおき、高座数に恵まれている者と、そうでない者
とが真っ二つに分かれた。
ーわたしは僻みやすい男だった。
わたしは落語扇会未加入の者を集め、定期的に会を開くことを考えた。予算
の関係で会場は総武線沿線のお江戸下町亭しか使えない。赤字はおれが引き受
けると、メンバーに約束した。男気を出したわけではない。子供のような僻み
を、大人の怒りに変えただけだった。
わたしは毎回プログラムをワープロで打ち、コピーして配布。手製の切符と
釣り銭を用意して、前座と同じく開場前に楽屋入りをして準備を整えたが、観
客動員の結果は惨澹たるものだった。
今の客は自分が贔屓にしている個の講釈師しか聴かない。だからわたしのよ
うな非社交的な男が動きを示しても、それに付き合ってくれるわけではない。
そこにわたしの誤認があった。
しかしやめるにやめられなかった。
定席がなく、大きな組織をもたない講釈師は、一日でも多く楽屋にいること
が必要なのだ。講談は伝統を背負っている。封建的な楽屋で修業しなければ講
釈師としての匂いが身につかない。講釈場に執着を覚えない者は講談の世界に
存在する意味がない。
ー四時になった。
わたしは着物が入ったリックサックを背負った。
母親の形見だった。
しかし赤字にしかならない仕事場に向かうのは気が重い。
わたしは現状から立ち退きをしたかった……。
|