『師匠、本牧亭で披露目をやりたいと思いますが』
アルコール依存症のために、わたしの真打昇進は遅れた。弟弟子の幸山に先
を越された。しかし断酒後二年半を経て真打昇進が決まり、わたしは披露パー
ティーの会場探しに苦労していた。新宿のホテルに知り合いがいるから紹介し
てやるよといった高校の同級生もいたが、わたしが呼べる客は、どう考えても
百人前後。とてもホテルでの披露目は無理だった。
だいいち金がない。
着物を作り、扇子、手ぬぐい、口上書を用意する。その経費も大変で、税務
署でさえ真打に昇進した年の赤字申告は認めている。
講談定席の看板を掲げる上野本牧亭で披露目をやろうと思い立ったのは苦肉
の策で、本牧亭は日本料理屋を兼ねているから、一階の店の料理を二階の演芸
場に運べばいい。従業員は顔見知りで融通が利くし、ホテルを使うよりも安上
がりにすませられる。おまけに百人の客には手頃な器だ。
何も見栄をはることはない、講釈師が講釈場で真打の披露目をやるんだ、誰
にも文句はいわせないと、わたしは多数の客を呼べない自責の念を辛うじてご
まかした。
『それでいいんだよ、君。昔はどこかの座敷に仲間内だけを呼んで、今度これ
が真打になりますからよろしくという挨拶程度だった。それが今は派手になり
すぎている』
二代目の言葉が救いになった。
わたしの披露目は皮肉にも講談の伝統を守ったことになった。
二十年も前の話だ……。
皇居の濠端に建つ日本ホテル。この日本を代表するホテルでの山百合の真打
昇進披露パーティーの出席者は四百人になろうとしていた。前座、二つ目以外
にも、山百合の友人たちが受付を手伝う。火事場のような騒ぎになっていた。
わたしに来賓の数を教えてくれたのは、スタッフを仕切る小吉だった。わたし
はロビーの窓際に立ち、皇居の木立ちを眺めていた。
これだけの客を呼ぶには組織の力がなければ到底無理だ。新真打はありとあ
らゆるコネを使い集客努力をする。この営業能力のない者は、まず芸人として
大成しない。わたしは身に染みて感じていた。
山百合の真打は、まだ吉瓶が会長であった昨秋の理事会で決まっており、真
打昇進には、どうしても一年の準備期間が必要だった。
このパーティーでの、わたしの役目はない。一門幹部勢揃いの迎賓に付き合
い、あとは座っていれば用が足りる。デジタルカメラを使う者が多い。
多数の入場者のために定刻十分遅れで始まった披露パーティーはマニュアル
通りのプログラムだった。講談連盟会長の桃子に席亭、芸界関係者、山百合後
援会会長の挨拶と続き、二代目の次男の音頭で乾杯となり、懇談の時間となっ
た。いわゆる着座バイキング形式で、会場内は喧騒に包まれた。
と、この時間を見計らったかのように、隣のテーブルから、わたしに手招き
をしてくる男がいた。
ある若手が『本日はようこそお出でくださいました。日曜日なのに、こうし
てお出でくださる……。よほどお宅にいられない事情があったのだと思います』
と使い古されたマクラをふったところ、『いや、ちゃんと話を聴きにきたんだ。
そんなことをいっちゃいけない』と客席の一番前から大声で言い返してきた男
だ。
まったく洒落がわからず、誘われもしないのに打ち上げに付き合い、その場
を仕切り、客席でも相手にされていない男と聞いていた。
わたしは「お話があるのならそちらからどうぞ」と手招きを返した。男はム
ッとしたように横を向いた。
……桃子が客のテーブルをまわっている。シナをつくり、娼婦のような、天
性の媚びをもつ女で、桃子が現れると、その場が急に華やぐ。どんな役につい
ても三ヶ月ともたない彼女が、会長職だけは長続きをしていた。もう半年にな
る。
「お互いこんなに派手なことはできなかったよなあ」
わたしは隣席の松尾僚調に話しかけた。わたしの同期で、講談組合に所属し
ている。今は袂を分かっているが、青春時代を同じ楽屋ですごしてきた男だ。
わたし同様独り者で、子供に好かれ、敵のいない男でもある。
「そうねえ。やりたかったけどねえ。でも女流でないとダメだよ。これだけの
ことはできゃしないよ。自分と女流を比べるとおかしくなるよ」
「だけどこれだけの客の、はたして何人が、これから講釈場に来てくれるのか
ね。定連はほんの一握りで、ほとんどが知らない顔だぜ」
「山百合の会にだけは足を運ぶ客にはなるさ」
「三代目と同じだな」
二代目亡きあと総領弟子吉瓶のもとにあずけられた太陽が、二代目の一周忌
を待ち、三代目品川陽山を襲名した。男性講釈師の中では群を抜いて売れてい
るが、山百合も二代目の没後吉瓶門下に転じていた。前座、二つ目は、真打で
ある師をもたないかぎり、この世界にはいられない。
「どういうこと?」
「あれだけ客を呼べても、その客は他の講釈師を絶対に聴こうとはしない。講
釈場に流れて来ない」
プロがアマチュアに教える講談教室に通う生徒たちも、ほとんどの者が客席
に姿を現さない。講談を演じるだけだ。
「ちょっと待ってよ。そうすると我々は売れっ子のお余り待ちということにな
るじゃないの。そりゃいくら何でも情けなくて涙が出るよ」
僚調が笑った。
祝辞が始まった。
三時間のパーティーに分刻みのスケジュールが組まれている。わたしも進行
表だけはもらっていた。ポップスを歌う女性歌手のアトラクションも入ってい
る。
小吉が、わたしと僚調に料理を運んできた。
僚調のビールは進み、わたしはウーロン茶を離さない。
「だけどこれから連盟はどうなるの?お宅のほうはいろいろ複雑だからさ」
僚調が尋ねてきた。
僚調の講談組合は連盟の倍以上の会員数がある。しかし落語界の比ではない。
組織の大きさは、その業界の隆盛に比例する。「ウチは同好会だから〜」が、
桃子の口癖だった。
「成り行きにまかせる以外にしょうがないさ」
わたしと女流とでは、まるで感性が違う。夫婦ならば当然離婚となるだろう。
しかし二代目の恩に報いるためにも、とにもかくにもここまで一緒にやってき
た。だが講談連盟におけるわたしの役目は、すでに終わっているのかもしれな
い。いつもわたしのまわりに、そんな気配が漂っている。
ー長話の来賓に、司会の緑が注意を入れた。
二次会参加者の出欠確認のために、小吉がテーブルをまわり始めた……。
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