愛山の講談私小説シリーズ 家庭菜園(7)

 

家庭菜園

 

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師走に入った。
 わたしは正月よりも年の瀬が好きだった。身を縮め、うつむきながら歩く姿
が、街の雰囲気にあう。わたしの神経も萎縮しない。
 十月の終わりに注文していた正月用の手ぬぐいが届いた翌日、ドアがノック
された。大家夫人の声だった。
「あっ、どうも」
 わたしはまだ髭を剃っていなかった。
「ごめんなさいね。朝早く……」
 夫人は、わたしがかねて頼んでおいた大家宅の隣のアパートの一室が空いた
と、わたしに告げた。
「本当ですか」
「ご覧になられますか」
「もちろんです。今行きます」
 雨もよいの中、わたしはジャンパーを羽織っただけで飛び出した。上下三世
帯ずつの102号室が空き部屋になっていた。夫人が鍵を開けて、中に入った。
可愛らしいスリッパが二足並んでいた。造りは新しい。畳は入っていなかった
が、たしかに今と同じ間取りだった。
 他に優先順位が上の借り手候補者がいて、「その人がダメになったからなん
です」と、夫人は説明した。いわば繰り上げ当選だ。
 こういうことがあるのかー。
 逡巡はなかった。わたしは即決した。
「またこちらでお世話になります」
 声が震えていた。わたしは新しい環境に弱い。床屋を変えるのにも一大決心
がいる。しかし同じオーナーで、同じ町内なのだ。すぐに馴染むだろう。
 わたしはその場で引っ越し時にはリヤカーを貸してほしいと頼んだ。直線距
離で百五十メートルの転居。とても業者をつかう気はしない。すべてを手運び
するつもりだった。夫人は笑いながら承知してくれた。二月中に荷物を運び入
れ、三月からの入居も、その場で決めた。
 ーまさにあっという間の出来事だった。
 一月の終わりに不動産屋と契約を結んだ。いくら同じオーナーとはいいなが
らも、やはり不動産屋は通さなければならない。系列会社を多くもつ、この土
地に進出したばかりの業者だった。保証人は父親にした。わたしと同世代の担
当社員は一瞬不満気な顔を見せたが、わたしは強引に押し通した。「保証人は
関東地区に在住の方云々」をいわれたら、また面倒なことになってしまう。
 日帰りで実家に帰り保証人の印をもらってきた。わたしは契約が苦手な男だ
った。自分で押印するときは手が震え、印鑑が上げられなくなってしまう。だ
から不快なことは一刻も早く片づけたいー。わたしの強迫観念が行動エネル
ギーとなった。アマ弟子の陽女が台車を手配してくれて、準備万端整った。わ
たしは楽屋で部屋探しに関する一連の顛末を物語った。
 しかし「ベラはどうなさるんですか?ご一緒に連れていかれるんですか?」
小吉の言葉が、わたしの胸を抉ったー。

 ベラは、ドアよりも、ベランダから、室内に出入りすることが多かった。目
覚めたわたしがカーテンを開けると、彼女はわたしに視線をあわせ、駐車場を
横切り、階下の物置の屋根に飛び乗り、わたしの部屋のベランダによじ登って
くる。
 わたしが窓を開けてやると、ベラはゆっくりと六畳間を通り抜け、台所の餌
置き場まで歩いていく。灰白色の野良猫だ。四年前に知りあったときは太って
いて、熟女であることに間違いはなかった。そのときはベランダの片隅に丸ま
っていた。わたしは市販の餌を置き、わたしに馴染んでくれるまで、数か月待
った。

 ……わたしに野良猫を手なづける癖がついたのは十七、八年前。この土地で
二軒目のアパートに住んでいたときだった。結婚披露宴の司会をつとめ、引き
出物にもらった鰹節の処理に困ったことがきっかけになった。そのアパートは
平屋で、庭を横切る猫がいた。腐りかけた縁側に丼に入れて置いておくと、い
つのまにか鰹節はなくなり、やがてわたしが目の前に座っても、その雌猫は逃
げなくなった。
 以来、野良猫が、わたしの友になった。
 もちろんアパートの住人が、ペットを飼うわけにはいかない。だから遊びに
きてもらっている。野良猫は勝手に来て、勝手に出て行ってくれる。わたしは
餌をやるだけで、何の責任ももたなくていい。わたしは野良猫との暮らしが気
に入っていた……。

 わたしは、その猫にベラという名前をつけた。転居を重ねるたびに何匹かの
野良猫と親しくなったが、こうして名前をつけたのは初めてだった。
『どうしてベラ……なんですか?』
 その頃、楽屋で小吉が尋ねてきた。芸者のような名前の通り気っ風のいい女
で、数少ない女流の本格派だった。まだ二つ目だが、技量だけなら女流のトッ
プにいる。しかしそれでも真打に昇進できないのが、この世界だ。彼女も猫好
きだった。
『ベランダで知り合ったから、ベラ』
『……?』
『ンダよりましだろう』

 わたしがアパートに帰ると、わたしの足音で、ベラはわたしがわかるようだ
った。いつのまにか足下にまとわりつき、外に張り出されている階段を、共に
二階に上がる。部屋に入ると、わたしは着替える前に、台所の縁の欠けた小皿
に餌を入れ、水を換えてやる。そしてベラが餌を食べ始めた姿をみとどける。
消化不良で嘔吐すれば後始末をしてやる。
 それだけだ。
 ベラと名づけただけで、わたしは一度も呼びかけたことはない。
 会話はない。
 室内で、勝手にさせている。
 ただ三日に一度くらいのペースで、ベラは六畳間の座椅子に座るわたしの腹
の上に飛び乗ってくる。甘えたいのだろう。その目と、気配でわかる。わたし
は全身を撫でてやる。しかし言葉は出ない。
 わたしは両親に幼児語を使って甘やかされたことがない。だからベラを抱い
てやる以外に、彼女を言葉で甘えさせる方法を知らない。
 今までの猫は、ある日突然一方的に出て行った。しかしベラは違った。いつ
までもわたしの部屋に通ってきた。
 ただ餌をもらいにきているだけじゃない。野良猫も淋しいんだ……。
 わたしはそう思った。

 二月に入り、わたしの荷物運びが始まった。体力を考え、一日五往復ときめ
た。隣は中学校だが、生徒たちの下校時間までには終えるようにした。子供の
見本になるような姿ではない。
 しかし家財道具が少なくなるにつれ、ドアといわず、ベランダからといわず、
部屋に入ってきたベラは、そこで一瞬立ち止まり、自分の位置を確認するかの
ような仕草をみせるようになってきた。安定していた環境が変化し、野良猫特
有の警戒心がはたらくせいかもしれない。
 野良猫の行動半径は二百メートルほどと聞いている。だが荷物運びの途中、
新居の周辺で、ベラの姿を見かけたことはないし、わたしのあとから新居まで
ついてきたこともない。
 つまりベラにとり、新居周辺は未知の土地になるわけだ。わたしとの関係を
好んだ猫が、とても神経が太いとは思えない。たちまち鬱気分におちいるだろ
うし、他の野良猫たちからの攻撃の牙を受けることにもなるだろう。
 それならばここにおいていってやろう。ここにいればベラは自由なのだ。そ
れが野良猫の自然の姿なのだ。動物を人間の都合につきあわせてはいけない。
 わたしはベラが日常にいる生活を断念したー。

 三月一日となった。
 今日は手伝いの者がきて、最後の荷物運びとなる。
 そうなればベラは寄りつかない。
 わたしは早めにドアを開けた。
 すかさずベラが入ってきた。
 わたしは最後の餌を与えた。
 しかしベラは大半を残した。
 そして一瞬わたしを見つめ、そのまま部屋を出て行った。
 すこしうなだれているようだった……。

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