夕食を終えて親戚に電話を入れた。風呂から上がって襖を開けると、母親が
寝ている。母さんの部屋はあっちだよ、あっちで寝な、と言いかけて、掛け布
団の上の守り刀が目に入った。今の母親はドライアイスに守られて安らかに眠
っている。
『こういう婆ちゃんの穏やかな顔は久しぶりだ』
と父親は言った。
わたしは父親、弟、義妹とは違い、母親の苛酷な闘病生活を、自分の生活の
中で目の当たりに見ていたわけではない。時々帰省しても、それはあくまでも
見舞いであって、わたしの日常に病と闘う母親は同居していなかった。『もっ
と早く帰ってきなね』と、まだ元気な頃の母親に言われたことを思い出した。
わたしは東京で離れて暮らしていることを理由に、母親の苦悶の表情を正視
することを避けていたのかもしれない。
わたしは壁にもたれ、煙草を吸いながら母親を見た。小太りで無邪気な母だ
った。六月に見舞った時に『悪いね。何もしてやれないうちにこんなになっち
ゃって』と言われたのが最後の言葉になった。思い出が頭の中を駆け巡った。
……わたしは子供の頃弄んでいた五円玉を呑んでしまったことがある。母親
がわたしを背負い医者に向かって駆け出した。そしてその時の震動で五円玉を
吐きだすことができた。
……小学校の校庭から、母親が二階の教室にいるわたしに向かって『一高、
テレビがきたよ』と叫んでいる。昭和三十五年、テレビが珍しい時代だった。
……わたしが、芸人になりたい、と言った中学三年の時、母親は気がふれた
ようになり、わたしはその夜添い寝をした。
……大学に進学しても芸人志望の夢は捨てきれずにノイローゼとなり、夏休
み明けに東京へ戻ろうとバス停に立ったわたしを母親は四階建ての社宅の屋上
から見つめていた。
……後輩たちがどんどん売れていく。先を越されたわたしはアルコール依存
症に冒され、故郷へ強制送還の処分を受けた時、母親は『しっかりしなきゃだ
めだがね。母さんのほうが先に死ぬんだよ』と言った。
そして母親は……先に死んだ。
わたしは母親が甥を抱き、風呂に入れている姿を、この目に焼き付けておく
べきだった。母親が順調に老いたということを記憶にとどめておくべきだった。
わたしは「みかんの花咲く丘」を歌った。小学校に上がる前のわたしに母親
が歌ってくれた曲で、たしかあの時は弟もそばにいたはずだ。母親は歌の後で
蜜柑をお手玉のようにして遊んでくれたから、季節は冬だったのだろう……。
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