月曜日の昼すぎに北関東から母方の叔父夫婦と若い頃の母親とよく似ている
という伯父の長女が来た。そしてこの三人が現れたのをきっかけに一昨日から
ひっきりなしに来てくれていた町会の人たちが姿を消した。通夜の受付を手伝
ってもらう段取りになっている。
四時に霊柩車が迎えにる。昼食を出前ですませた後は時間待ちだ。父親と叔
父夫婦は母親のそばにいる。わたしは両親の部屋で従姉妹と話をした。この従
姉弟も七月に母を亡くしている。その時の通夜、告別式を取り仕切ったのは彼
女で、わたしも列席した。四十五年ぶりの再会だった。わたしは母方の親戚に
は甘えられるし、甥もすっかりなついている。
「あの時は大変だったでしょう?」
「大変よ。今でも父と喧嘩してるわ」
「そうなりますか?」
「なるわね」
二時になった。
わたしはまずワイシャツに袖を通した。
喪服に着替えるのがこんなに辛いとは思わなかった。
時間を追ってゆっくり着替えようという苦肉の策だ。
わたしが着替え始めれば他の者も意識するはずだ。
無言の催促だ。
二時間かけて着替えをすませた。
霊柩車が迎えに来た。
外へ飛び出した甥が大きな声で「ぼくのお婆ちゃん死んじゃった」と叫んだ。
そばにガールフレンドがいるようだ。
「一高が乗ってくれ」
父親に言われて、わたしは合掌している町会の人たちに挨拶をすませた後、
生まれて初めて霊柩車に乗った。車種によって使用料金が違ってくるというこ
とは、すでに脳裏から消えていた。甥が使いきりカメラで写真を撮っている姿
が視界をよぎった。
町の景色が無味乾燥として、音も聞こえない。この世のことなどまったくの
絵空事といっているようだ。わたしの出た高校の裏手に斎場はある。十分で着
いた。受付嬢が「ご苦労さまでございます」と言い深々と頭を下げた。わたし
はまず喫煙所を探した。すでに喉がガラガラだが、煙草とコーヒーが唯一のエ
ネルギー源だった。気がつくと靴擦れの痛みはなくなっていた……。
若い男女のスタッフが湯かんをすませ、死装束に着替えさせてくれた。甥が
シャワーで母親の頭を洗い流し、弟が髪形を直した。
「そうそう。姉さんは若い頃からそうだったよ。前髪を横にしていた……」
叔母がつぶやいた。わたしは母親の髪形を思い出せないでいた。
会場の祭壇に棺が安置された。趣味の踊りの扇子と好物だった煎餅が入って
いる。父親が用意したものだ。一目で安物とわかる。
『母さんがお茶を入れたら、父さんはおいしそうに飲んでくれたんだよ』
どうしてそんなことを話す気になったのか。わたしは子供の頃一度だけ母親
から見合いの場面を聞かされたことがある。その時の茶受けは煎餅だったのか
もしれない……。
遺族控え室は広い。義妹の肉親たちが次々に到着した。甥のガールフレンド
が飛び込んできた。町会の人たちが受付の手伝いにきてくれたのだ。約束の時
間より三十分も早い。わたしは挨拶に立った。ロビーで石種に会った。高校の
同級生で、彼だけには母親の死を知らせてあった。
わたしが芸人志望の夢を忘れられずにノイローゼとなっていた頃、母親は
『一高は一体何を考えているんでしょうねえ』と石種に相談をもちかけている。
「悪いな。仕事の途中で、最後まで残れないんだ。……どうした、トラブルで
もあったのか」
「どうして?」
「顔が引きつってるぞ」
「そうか……」
「まあ仕方ないか……。おれのほうも何人かには知らせておいたからな。都合
のつくやつは来るかもしれない」
「すまないな。ありがとう。……そうだ、そういえばこの建物は昔結婚式場じ
ゃなかったか?」
「なんだ今ごろ思い出したのか。少子化が進んでるから結婚式じゃ商売になら
ない。そこへいくと人は必ず死ぬからな。宗旨替えをしたんだろう」
控え室に戻ると山川がわたしを探していた。
「どうも申し訳ございません。和尚さんが遅れます」
「……」
「なんでも一度はオートバイでこちらに向かわれたのですが、ご位牌をお忘れ
になられたそうでして……。でも開式の七時には充分に間にあわれますからご
安心ください」
わたしは僧侶の死に対する無神経さに怒りを覚えないくらいに疲れていた。
……通夜の列席者はわたしの目論見どおりだった。読経が流れる中、遺族席
で会葬者たちの焼香の挨拶を受けながら、わたしは、母さん、負けたよ、と腹
の中でつぶやいていた。わたしの独演会は客一人だったのだ。それにくらべて
母親は最初で最後の「死」という名の独演会にこれだけの人を集めたー。
父親と義妹に甥は家に帰った。母親の棺を前に、弟と枕を並べるのは何年ぶ
りになるだろう。叔父夫婦と従姉妹は隣の部屋で寝ている。弟が通夜ぶるまい
の席で『おれ、婆ちゃんに一度も怒られたことないや』と義父に言った言葉が、
まだわたしの耳に残っていた。
叔父が足音を忍ばせて何度も線香をあげにきた。『おれは子供の頃から、姉
さんと一度も喧嘩なんてしたことがないぞ』とわたしに教えてくれた。職人で
一本気、人がいいだけが取り柄の男だった。精神安定剤を持参しているという。
わたしの目にうっすらと涙がにじみ、それが消えることはなかった。
弟が軽い寝息を立て始めた。
弟にくらべ、わたしは不甲斐ない人生を歩んでいる。
……遅かれ早かれ、今度は父親の番だ。父親を見送った後は、なんとか弟た
ちに迷惑をかけずに死んでいきたい……。
ーわたしは唐突な思いに囚われた。
そしてすこしまどろんだ……。
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