重く、粘りつくような小雨になっていた。すこし蒸す。しかしJR桐生駅は
ホテルの目と鼻の先にあり、折り畳みの傘をさすのは面倒だ。傘嫌いの玉丸は、
このくらいの雨はすこしも意に介さない。
玉丸はタクシーで東武線桐生駅に向かう。別れ際、玉丸は「これ、気持ちだ
けど」と香典を差し出した。糖尿からくる腎不全で、母親が七十七才で亡くな
ったのは八日前のことで、初七日の法要は告別式のときにすませてある。
わたしは昨晩、玉丸と共に、この土地の寺で開かれた地域寄席に出演をして
いた。「講談と落語で聴くお化けの会」が謳い文句で、打ち上げに顔出しをし
なければならず、一泊の仕事になった。玉丸の弟子の前座はすでに帰京してい
る。昼席に間に合わせるためだ。
わたしは母親の死を一門の講釈師以外には、この落語の風流亭玉丸にしか話
していなかった。
「どうもありがとうございます。何のお返しもできませんが」
「いやいや、いいんだよ。本当にそんなことはいいんだから……。でもこれか
らJRじゃ余分の切符代がかかるね」
「仕方がありませんよ。こっちが勝手なことをしてるわけですから……」
玉丸は乗り込み同様東武線で東京に戻り、わたしは両毛線の電車に乗る。生
まれ故郷の佐野を訪れるためだ。母親の供養のつもりだった。四十年ぶりの帰
郷となる。着物が入っている薄紫のリックサックは数年前に母親からもらった
もので、図らずも母親の形見となった。
佐野には東武線も乗り入れているが、かなり遠回りになる。わたしはJRの
コースを選んだ。ホームには数人の喪服の女性が佇んでいた。初老といってい
い。夏は人が死ぬ季節なのか……。わたしは余計なことを考えた。
ー二十分ほどで佐野に着く。左手に城山が見えてきた。母親に連れられて、
よく遊びにきた。一段山、二段山、三段山に分かれて、公園になっている。胸
が高鳴った。
佐野駅はJRと東武線の改札口が隣接している。自動改札を通ると、合羽を
着た母方の叔父が迎えにきていた。ホテルから電話をかけ、電車の到着時間を
知らせておいたが、まさか迎えにきているとは思っていなかった。そんな約束
はしていない。家に来客があると五分前から客用の座布団の前に座り、客が五
分遅れるとイライラしはじめる……。そんな叔父の気性を、叔母が笑って話し
てくれたことがある。
「これを使いな」
「いや、折り畳みの傘を持ってますから」
「いいから使いな。甘えられるときは甘えな。東京へ戻ったら捨ててくれれば
いいから」
叔父がわたしにビニール傘を手渡した。母親と同じ口調だった。声質も似て
いる。
「昔はいったん駅の外へ出て、踏切を渡らないと城山には行けなかったけど、
今は改札口からそのまま行けるさ。二年くらい前に新しくなったのさ」
叔父のいうとおりに、たしかに駅舎や駅前広場は変わっていた。昔日の面影
はない。しかし風景は変わっても、記憶の核にある道はすぐにわかる。それは
鯉幟職人から工員となった父親の通勤路で、子供の頃は何度も迎えにきた。駅
前広場には街頭テレビがあり、それがわたしの楽しみだった。『おまえは電車
が好きでね』。母親に言われたことがある。城山の蝉が、背後から襲ってくる
ように鳴いている。
ーコンビニの筋向かいに電話ボックスがあった。
「これはおれが造ったさ」
佐野は鋳物の町だ。左甚五郎が上野寛永寺の龍を彫ったときに、その技を競
った男は佐野の天明町の出身だ。わたしは講談で覚えた。
叔父は鋳物職人で、律義で、一本気な男だった。母親の葬儀には精神安定剤
を持参していたし、清めの席では直立不動で、親族代表の挨拶をしていた。
札幌と喜多方の後を追い、佐野は十数年前から、ラーメンの町として世に知
られているから、幟がはためく華やかな商店街を想像してきたのに、あまりに
も人通りが少ない。書店が見当たらない。わたしが子供の頃のほうが賑やかだ
った。往時を偲ばせる道や建物が虚しすぎる…。
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