東武線佐野市の駅裏に、今の叔父の家があった。むりやりに切り拓いた土地
だ。父親は訪れていないが、母親は十年ほど前に静岡から遊びにきているとい
う。足利出身の親友の小崎夫人に伴われてのものだ。台所のテーブルで、わた
しそのときの母親と同じ椅子に坐った。
「葬儀のときはありがとうございました」
わたしは叔母に礼を述べた。相変わらず陽気な叔母だった。
「でもよかったよ。立派なお葬式で、姉さんは喜んでるよ」
「とにかく無事に終わってほっとしてます」
「仕事を退けて、お面かぶって踊ってたときもあったんだから、姉さんは幸せ
だったんだよ」
母親は歌と踊りが趣味で、父親よりも外向的だった。
「……姉さんとおれは子供の頃から一度も喧嘩しなかったさ」
薄く割った焼酎を片手に、叔父が言った。葬儀のときにも耳にした言葉だっ
た。母親は上と下が男の、三人兄妹のまんなかで、上の伯父は埼玉に住んでい
る。車椅子の生活だった。
「それにせんべいが好きでな」
「ええ」
「みんなが静岡へ行っちゃった後、おばあちゃんは毎晩『トシ子、トシ子』っ
て、姉さんの名前を呼んで泣いてたさ」
叔母は言い、「ねえ、そうだったよね」と叔父を見た。
「ああ。それに兄さんは静岡に行きたくはなかったさ。とにかく旅行もしたこ
とがなくて、将棋だけで、外に出なかった人だから……。だからいろいろ上司
に届け物をしたらしいけど、だめだった。静岡に行かなけりゃ会社を辞めなけ
ればならなくなるから、嫌々行ったさ。引っ越しの荷物も、あれは性格なんだ
な、皿一枚にいたるまできっちりと梱包して、運送屋が驚いていたくらいさ」
……言葉がとぎれた。叔父が焼酎を飲み終えたのをきっかけに、わたしたち
は外へ出た。雨が本降りになっていた。
野球をして遊んだ寺は、今は厄除け大師として有名になっている。さすがに
野球の後で喉を潤した井戸はない。
「代替わりしたからな。こんなになっちゃったさ」
叔父が成金趣味の梵鐘を見ながら不服そうに言った。この寺では母親が自転
車に乗る練習もしたが、結局母親は自転車には乗れなかった。電車にも一人で
は乗れず、歩くだけの人生だった。
生家の敷地には二件の家が建っていた。まだ新しい。駐車場代わりになって
いるようだが、表の神社は変わっていない。一瞬、弟の一之と遊んでいるわた
しを、母親が「ご飯だよ」と言って迎えにきた情景が脳裏に浮かんだ。今はも
うここでラジオ体操をやっていないのだろうか。そういえば子供の姿を見かけ
ない。隣接した保健所の職員のなかに器用な男がいて、木の葉を鳴らしては聞
かせてくれた……。
「飯にすんべ」
大食漢の叔父が言うと、
「越中君の家があるよ。今でもラーメン屋さんだよ」
と、叔母が付け加えた。越中は幼馴染みで、母親同士も親しく、よく遊びに
行った。その頃から越中の家は食堂をやっており、氷を食べた覚えがあるし、
座敷で学芸会の練習をしたこともある。生まれてはじめて電話をかけたのも、
越中の店からだった。
越中の家まで、道には迷わない。暖簾をくぐると、昔ながらのこじんまりし
た造りで、同世代とおぼしき男が夫婦で店をやっている。カウンターにテーブ
ルが二つ。時分時をはずしたとはいえ出前で忙しそうだ。「何か言いなよ」と
叔母に言われても、なかなか声をかけられない。生まれ故郷を離れた者の気後
れがある。しかしそうもいってはいられない。叔父が勘定を払った後、思い切
って話しかけてみた。
「昭和三十七年まで、神社の裏に住んでいた者ですが」
わたしは本名を名乗った。
「あっ!同級生だ」
越中はすぐにわたしを思い出した。「どうもさっきから、こっちをよく見て
いると思ったよ」と笑い、矢継ぎ早に何人かの友の名前をあげた。
「覚えてる?」
「ええ。うろ覚えですど……」
越中の妻がカウンターの中から、わたしに微笑みかけた。
「四十年ぶりです」
わたしは思わず声が出た。妻がうなずいた。
店内には寄席情報誌の「大江戸かわら版」が置かれてあり、壁には落語家の
系図が張り出されていた。偶然にも、越中は寄席好きだったのだ。わたしが品
川陽吉という名前で講釈師になっているという情報も数年前に届いていたとい
う。
わたしが四十年も生まれ故郷に帰らなかったのは、誰もおれのことは覚えて
いないだろうとの躊躇があったからだ。講釈師になって三十年、出身地を育ち
の故郷の静岡にしているのも、そうした理由からだった。
しかし越中はわたしのことを覚えていてくれた。生まれ故郷を見る目が急に
変わった。これからは頻繁にこの土地を訪れることになりそうだ……。わたし
はそんな予感に囚われた。
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